つれづれと雑文

書きたいことを書いているだけのブログです

44歳の私が小沢健二の東大講義に行けることになった話

1994年。滋賀県で中3だった私は、受験勉強もそこそこにラジオばかり聴いている子どもだった。季節はいつだったか忘れたが、ふと流れてきた「ラブリー」に衝撃を受けた。

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それから、TVやラジオで彼を追うようになった。特にダウンタウンがMCをやっていた「HEY!HEY!HEY!」という番組をよく見ていたなぁ。

 

「ドアをノックするのは誰だ?」「強い気持ち・強い愛」「カローラⅡに乗って」「痛快ウキウキ通り」「流れ星ビバップ」…数え上げればキリがないけれど、たくさんの名曲達が私の青春を彩ってくれた。

 

 

受験生だった1997年の夏は、ひたすらウォークマンで「Buddy」を聞いていた。

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当時高校の同級生と三角関係になっていたので、当時の私は「争いも恋もしかたない それが夏休み」の歌詞が、まるで自分のことを歌ってくれているような錯覚に陥っていた笑 で、1回は告白されたのに数日後にフラれて(友人と付き合うことになって)、「PANIC それなりの事態」になったという笑笑(無理もない それが夏休み)

 

 

 

時は流れて。私が初めてオザケンのライブに行ったのは2016年のこと。

 

一番印象に残っているのは、生の小沢健二本人の姿ではなく、スクリーンに映し出された歌詞。当時未発表曲だった「流動体について」の歌詞に打ちのめされたのだ(※オザケン含め、演者の後ろのスクリーンにこの映像が流れていたのです)。そして、自分は小沢健二の(楽曲というよりは)歌詞に魅せられているのだな、と気付かされた。

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「春空虹」にも行きました。満島ひかり、良かったなぁ…(しみじみ)

 

 

2013年生まれの長男も、オザケンに興味をもってくれました。

 

 

そして2022年、息子と一緒にライブへ。2年越しというストーリーも相まって、一生忘れられない思い出が出来ました…!

 

 

 

そんなこんなで約30年間、小沢健二の音楽に触れてきた私ですが、実は今年(2023年度)、職場の制度で大学院に派遣されていまして。

 

dan-makino.hatenablog.com

 

 

そしたら、6月に衝撃の発表が…! 

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www.hihumiyo.net

 

こんな奇跡ある?「ある光」以前からのオザケンファンで、この講義の受講資格を満たしている人は極めて僅かだろう。現に、「今からでも科目等履修生とかで受講資格を満たせないかしら」的なツイートをたくさん見かけた。

 

まさに僥倖としか表現できないタイミング。ただ、勿論無条件で受講できるわけではない。レポートによる選抜があるのだ(上記リンク参照)。7/14の〆に向けて、ありったけの思いをこめてレポートを書いた。大学院の課題と並行していたのでなかなかにハードモードだったが、若い学生との差別化を意識して文章を書き、締め切り間際に提出をした。

 

レポート執筆中のテーマソングは、「ウルトラマン・ゼンブ」。正に「知っている僕の全部をかけ」て、「この地点から放つ必殺光線」を「届く」と信じて、書いていた笑 コロナ禍のときにもたくさん勇気をもらいましたが、この曲は本当にもっと世に評価されてもいいと思います、マジで。

 

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連絡が無いから落ちたのかな…遠慮せずにもっとページ数書けばよかったかな…と思っていた7月31日の夕方。待ち望んでいた連絡が、遂に来た。

 

「ラボで厳正な審査を行った結果、〇〇さんの出席をお認めすることになりました。」

 

メールを見た瞬間、やったぜ!!という感情というよりは、1994年からの(上記のような)あれこれが胸を去来し、「よかった…」というしみじみとした気持ちになりました笑 その日の夜はこのGIFを肴に呑んで、ちょっと泣きました笑笑

 

 

 

小沢健二本人のSNSには、このように書かれていた。

 

 

「たくさんの熱量高いレポート、本当にありがとうございます。光栄です。」 

 

本人に伝わった熱量の中に拙い自分の文章が含まれているのだと思うと、それだけで胸が熱くなります…

 

…ということで(?)、私は2023年9月30日の「小沢健二東大900番講堂講義」に出席できる運びとなりました。ありがとうございます。万感の思いを込めて、受講してきます…!

 

 

以上となります。自己満足でしかない駄文を最後までお読みいただき、ありがとうございましたm(_ _)m 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年度の自由を817,800円で買った男の話

2017年1月22日(日)、17時過ぎ。新橋駅で電車の座席に腰を下ろした私は、ため息交じりにこう呟いた。

 

「駄目だ、全く歯が立たない・・・」

 

それは、文部科学省のとあるプロジェクトに参画した初回の帰り道での出来事。御縁に恵まれ、委員に任命されて出席した会議だった。集まっていたのは北は秋田、南は沖縄から来ていた、数学教育のプロフェッショナル達。大学教授、○○センター長、県や市の指導主事など錚々たる肩書の方々の中、ヒラの教諭は30名程の参加者のうち、私を含めてわずか3名だった。

 

そのプロジェクトは年間を通して、週末に会議が行われた。10時から17時頃まで(白熱したときは19時頃まで)、合計30回程度。毎回、濃密な数学教育に関する議論が展開された。超一流の方々とその会議に参加出来たことは、今思い返してみるとそれはそれは貴重な経験だった。

 

この会議の議論に加わる中で、私は己の実力不足を痛感することになった。議論の前提として皆が知っている論文や理論のことを、私だけがわかっていない事も多々あった。事実、委員の任期は3年間が既定路線だと言われていたのだが、2年でクビになった。

 

今思えば、当時の自分は自惚れていたのだと思う。3年間SEとして働いてから教員になってこの時点で約10年。その間、論文が表彰されたり、県の研修センターに様々な研修の講師として招聘されたり、民間企業から仕事の依頼を受けて報酬を貰ったり。そういった経験から、「自分は他の教員とは違う」と自惚れていたのだ。そういった勘違いや過信で長く伸びた鼻が、このプロジェクトに参画することで見事にへし折られた。それも、粉々に。

 

同じ頃、職場の先輩が大学院に派遣されることになった。聞いてみると、学費は自腹だが、給料を満額貰いながら1年間は勤務ゼロで大学院で学ぶことができるのだという。

 

なんて魅力的な制度なんだ、と思った。と言うのも、私は上述のとおり3年間SEとして会社勤めをしてから教員になったのだが、転職を決断をした時点では教員免許を持っていなかった。なので、1年間都内で夜間大学に通って単位を揃えて免許を取得したという経験がある(日中は採用試験の勉強をしたり、派遣社員として働いたりしていた)。

 

その1年間の経験で実感したのは、「社会人を経てからの大学は本当に楽しい」ということ。学ぶってなんて楽しいんだ、と。きっと、同じ経験をした人は全員口を揃えて言うでしょうけど(笑)

 

また、この時期に読んでいた「LIFE SHIFT」にも大いに刺激された。リカレント教育の必要性やマルチステージ化する人生への対応。仕事と子育てに追われる慌ただしい日々に一度ストップをかけて、(この本が提唱する)"無形資産"の形成にじっくり取り組みたい。また、じっくり腰を据えて学ぶことで、自分の土台をより強固なものにしたい。そう、強く願うようになった。

 

早速当時の校長に「私も大学院で学びたいです」と直談判に行ったが、返ってきた答えは「まだ早い」だった。それから所属校の校長が変わる度に同じことを訴え続けたが、芳しい答えは返って来なかった。

 

どうすれば了承してもらえるだろうかと考えた末の1つの答えが、「もっと組織に貢献しよう」だった。学校に、組織に貢献して校長にその働きを認めてもらえれば、希望を叶えてもらえるのではないだろうか。そう考えて、行動に移した。特に、コロナ禍への対応(オンライン授業など)では、同志の先生達と共に組織全体のコロナ対応を推進した。たとえばこんな感じで↓

 

dan-makino.hatenablog.com

 

そして、ついに言い始めて4人目の校長にOKをもらったのが、2021年の夏。そこから大学院の説明会に足を運び、ツテを頼って県の選抜試験の過去問を入手し、勉強を始めた。選抜試験は、教員採用試験のような問題で、いわゆる教職教養の勉強が中心だった。2022年の夏に県の選抜試験(筆記試験&小論文&面接)、秋に大学院の入試(小論文&面接)があって、幸いにも2023年4月に県からの派遣という形で大学院に入学する権利を得ることができた。

 

ここで、このエントリのタイトルの意味を説明しておこうと思う。817,800円とは、入学金282,000円と年間の学費535,800円の合計金額のこと。この金額を払って、私は2023年度、1年間の自由を得た。この場合の自由には色々な意味が含まれるが、一番は「学問の自由」だろう。なお、1日あたりにすると約2,234円となる。仕事を全くせず、学びたいことを学ぶ為の対価として、2,234円は高いだろうか、安いだろうか。どうでしょう?ちなみに、この計算をするにあたって、2024年が閏年なので1日トクしていることに気付きました(笑) あ、あと気になる人もいるかもしれないのでお伝えしておくと、修士2年目となる2024年度は、週4は学校に勤務で週1だけ研修扱いで大学院に行って修士論文を書くことになります。ええ、端的に言うと地獄です^^;(今はそのことは考えたくない…w)

 

・・・正直、大学院になんて行かなくても、このまま勤め続けることはできたと思う。2年後、大学院の修了と共に専修免許を取得して多少給料が上がったとしても、2年間の学費は到底ペイできない。年収が爆増する転職でもしない限り、経済的合理性からは今回の私の選択は明らかに赤字だ。(上述のとおり、学費は自腹)私のワガママを許してくれた妻には、本当に感謝しかない。

 

私が進学するのは数学教育を専攻するコースで、現時点での研究テーマは

「算数科における個別最適な学びの実現に向けた教師の学習支援の在り方
~学習者用デジタル教科書やデジタル教材の活用及び教育データの利活用を通して~」

である。勿論今後大きく変わる可能性もあるが、教育工学からのアプローチで語られることが多いICTを活用した教科教育の領域に、これまで算数数学教育界が培ってきた知見や自分自身がこれまで現場で培ってきた経験を掛け合わせて、上記のテーマに迫っていきたいと現時点では考えている。

 

研究テーマが変わったとしても、己の芯としてブレずに持っておきたいのが「三方よし(良し)」を目指す、という志だ。三方よしというのは、私の地元である滋賀県近江商人が大事にしていた考え方で、商売において「売り手良し・買い手良し・世間良し」を目指すことを意味する。私も自分の研究を通して、「子ども良し・教師良し・社会良し」の三方よしを目指すことを、ここに宣言したい。自分だけを利するような研究ではなく、県からの派遣という形で大学院に行かせていただく以上、大袈裟に言えば公教育全体に資する研究成果が求められているのだいう自覚をもって、日々の研鑽に臨んでいかなければならないと考えている。

 

上述のとおり最初は利己的な動機ではあったが、日々の業務の中で「組織に貢献できる人になろう」と意識するようになって約6年。その間、学年主任を務めたり校外の様々なプロジェクトに参画したりする経験を経て、自分の視座がかなり上がった実感がある。そんな自分が、1年間、自己研鑽に没頭できる自由を得ることができた。これまでも実現すべく行動に繋げてきたつもりではあるが、本当の意味で、この(現時点での)人生理念を実現していこう。今、このブログを書いている2023年4月1日、本気でそう思っている。

 

私のレゾンデートル(2023/4/1時点)

 

 

・・・ここまでダラダラとした自分語りにお付き合いいただき、ありがとうございましたm(_ _)m 大学院派遣中は、Twitterは鍵付別アカウントに移行します。と言うのも、これまでどおりTwitterではダラダラと日常を垂れ流したいわけですが、「アイツは給料を貰いながら大学院に行っているくせに、遊んでいる!」と県教委に密告されるのが怖いからです。ぶっちゃけ。ここまでこのエントリを読んでくださった方は、私が遊ぶ為に大学院に行くつもりでは決して無いとわかっていただけるかと思うのですが、世の中にはいろんな人がいて、いろんな切り取り方をされてしまうのがTwitterですので…

 

新しいアカウントは @macky20232024 です。どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m

長文を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!感謝!!

【個人的備忘録】2022年の振り返り~エッセンシャル思考の実行~

ビジホに籠って,2022年を振り返っています。

 

仕事・家庭・自己研鑽・教養・趣味・健康・財産の各領域で,それぞれ出来たことや出来なかったことなどをマインドマップなどを使いながら,ブレストしています。

使っているソフトはコチラ↓

jp.xmind.net

そのうち,仕事面で今年を振り返ってみると「今年はエッセンシャル思考をうまく形に出来たな」と手応えがあったので,自分の備忘録としてブログにまとめてみることにしました(笑)

 

説明不要かもしれませんが,エッセンシャル思考とはこちらの書籍で紹介されている考え方です。

 

(上記Amazonの書籍紹介ページより)

 

考えとしては素晴らしいのはわかるけど,いざ実行するとなると難しい。それがエッセンシャル思考。

 

私が公教育の教育現場で学年主任として,どうやってエッセンシャル思考を実行していったのか。勿論思い通り100%納得いく形ではありません。組織人ですから。でも,折角時間を割いて読んでくださっている皆様の何かのヒントにでもなれば,との思いをこめて書いていきたいと思います。

 

<考え方>

これはもうとてもシンプルで,「大事じゃないことを思い切って捨てる」ですね。学校はビルドばかりでスクラップが苦手,だなんて大勢の人の手垢が付き過ぎて真っ黒になっている言説ですが,とにかく勇気をもって止める。

 

<行動>

そんなことはわかってるんだよ,じゃあどうするんだよ,って話じゃないですか。これはまず,自分の権限で捨てられるものと捨てられないものの仕分けから開始です。たとえば,私は学年主任ですので,「去年実施していた学年行事」は止めることができます。実際,今年いくつか廃止(もしくは縮小)しました。勿論私の独断では無く,学年スタッフと検討の上,です。その際に,エッセンシャル思考と言う言葉は出さなくても「今は〇〇に注力すべきだから,これは止めませんか」というような提案を学年会で何度もしました(〇〇に入るのは,他の学校行事だったり,事務作業だったり様々です)。

 

今年は,学校単位の行事にもメスを入れました。これは管理職を含めた組織体で決めたことですが,ここでも積極的に根回し&発言をしました。「学校の教育目標や市の重点目標が○○なのだから,これに注力しませんか」と。ここで大事なのは,「公益に訴える」という点です。忙しいから行事を減らす,というのは正論ですが,それだけでは正直組織は動かせません。これに注力すればこんないいことがありますよ,だからこれを止めませんか,というロジックです。私の場合で具体的に言うと,今年度はICTを用いた授業改善が市や学校の重点目標なので,「コロナ休校対応を経て,先生方のパラダイムが大きく変わろうとしています。ここで組織として先生方の授業力の向上に注力すれば,子ども達の学びの質が劇的に向上しますよ!」といった具合のことを,粘り強く多くの方や会議で訴え続けました。

 

さて。勿論現実はここまでのようなキレイ事ばかりではありません。偉そうに言ったからには,そう,成果が必要なのです。見定め,エネルギーを注いだ「大事なこと」において。

 

上記「エッセンシャル思考」より

 

成果を出さないと,「なんだアイツは偉そうに。行事を止めろだなんだ言っておいて,結局ラクしたいだけじゃないか」と思われてしまいます。来年度以降もエッセンシャル思考を継続して選ぶために(組織の中で選べる人で居るために),目に見える成果は必要不可欠です。私の場合は組織的に授業改善が重点目標だったので,自主的に授業を公開し(手前味噌ですが)「市や学校の描いている理想の具体」を提示しました。成果はTeamsで公開し,共有を図りました。他にも,若手の指導に積極的に関わったり,有益な情報をTeamsに公開したりしました。また,口だけで終わらせることをせず,働き方改革に関する任意研修を2回企画・実行しました。

 

これも界隈でよく言われることですが,結局「何を言うかではなく誰が言うか」じゃないですか。教育現場って。その「誰が」になるために,エッセンシャルに考え,行動した結果,今年に関してはうまくいったのかなぁと考えています。勿論,昨年度までの信用の蓄積もあるでしょうけども。

 

<結果>

結果として,個人的には今年はかなり仕事をコントロールできたな,という手応えがあります。勿論突発の生徒指導などが無かったわけではないのですが,子どもの保育園に迎えに行くと予め決めた日(年平均で週4.3日ぐらい)で行けなかった日は年間で5日もありませんでした。人によって違うと思いますが,私の場合ストレスは仕事の量ではなく自分がコントロール出来ない仕事の量に相関します。自分で選んで忙しいぶんにはほとんどストレスがかかりませんが,少しでも予定外の事が生じるとめちゃくちゃイライラするタイプです(「ごめん保育園のお迎えお願い」と妻にLINEするのがMAXストレスです笑)なので,年間通してご機嫌に仕事が出来て良かったなぁ,と今感じています。

 

 

…いかがだったでしょうか。ここまでお時間割いていただいたのに,単なる自慢話に聞こえていたら本当に申し訳ありませんm(_ _)m なるほどなぁ,と少しでも感じていただけたなら幸いです。ここまでお読みいただき,ありがとうございました!

 

 

 

 

 

【教員向け】休校オンライン対応・私はこんな失敗をしました

はじめましての方は,はじめまして。茨城県の公立学校で教員をしておりますマッキーと申します。5年生の学年主任を務めています。

私が勤務している学校は夏休み明けの9/1から臨時休校となり,結果的に休校が9/24まで伸びました。休校の間は,ずっとオンライン。朝の会をするのも,授業をするのも,こちらから連絡をするのも,子どもとやり取りをするのも,全てTeamsでした。

このエントリーを書こうと思ったきっかけは,この記事を目にしたことでした。

news.yahoo.co.jp
てっきり全国的に休校しているのかと思っていたら,茨城が特殊だったとは。(茨城より酷い感染状況の地域なんて,他にもたくさんあったのに…!)

じゃあ,全国に先駆けて(?)地域全体で休校している私の体験談は,今後もっと強烈な感染の波が来て休校になる地域が増えたりしたときに,誰かの役に立つんじゃないか?と思ったりしたわけです。

 

そこで,Twitterでアンケートを取ってみましたんですよ。


・・・そうですよね,成功談は世に溢れていますし,正直「キラキラしやがって。へっ(`∀´▲)」ってなるときありますよね(苦笑) ということで,このエントリーでは主に失敗談について共有させていただきたいと思います。今この文を読んでくださっている皆さんには私と同じようなミスをしてほしくないので,恥ずかしい気持ちも正直ありますが(小馬鹿にされるんじゃないか!?とか…),正直に書きますね。


<環境面>
失敗談の前に,まず環境面の説明をざっくりと。子ども達は,GIGA端末(Windows)を1人1台持ってます。ネットワーク環境が無い家庭には,自治体からルーターが貸し出されています。子どもにはMicrosoftのアカウントが割り当てられ,Teamsも年度当初の4月から授業などで活用していました。コロナによる休校に備え,自宅からのログインなども練習していました。

 

ではいきましょうか,生々しい失敗談。全部で4つあります。

 


<失敗その1>コミュニケーションの「量」で失敗

2020年2月。ときの首相の鶴の一声で,突然休校になったあのとき。私の勤務校はまだGIGA端末も配備されておらず,家にいる子ども達とコミュニケーションを取る手段がありませんでした。4月になり,はじめましての子ども達の家に一軒一軒かけた電話。そしてプリント地獄(作成→印刷→配布)。コミュニケーションが取れないこと,子どもの様子が全くわからないことの恐怖。今でも忘れません。

それに比べて今回はTeamsがあるじゃん!連絡し放題じゃん!!と舞い上がった私は,必要以上にTeamsに投稿をしてしまいました。これも大事だよ,あれも忘れないでね,こんなサイトがおすすめだよ,とか。それって,子ども達からしたら情報過多だったんですよね。そして教科担任制ということもマイナスに作用しました。各教科担当がそれぞれの最適を目指して発信をした結果,全体最適にはならなかった(子ども達に負荷がかかり過ぎた)のです。あっちのチャネルにもこっちのチャネルにも情報がある…どうしたらいいの?といったように。

それで何が起きたかというと,Teamsを使いこなせていない(見るのを諦めた?)子の親から学校に電話が来るんですよ。「○○の件って,どうなってますか?」って。Teamsでメンションつけて連絡してるのに。なんて無駄な時間…

 

 

失敗その2>コミュニケーションの「質」で失敗

我々教員って,子ども達の顔を見て話すときに,言葉を選ぶじゃないですか。「あ,この言葉は〇年生には難しすぎるな」とか。教室で,子ども達の反応や顔色を伺いながらコミュニケーションを取りますよね。ふつうは。オンラインだと,それが出来ないんですよね,当たり前なのですが。

あるときにふと思い立って,Teamsで子ども達に投げた自分の投稿をふり返ってみたんですよ。まぁ表現の酷かったこと。習ってない漢字,難しい言葉のオンパレード。象徴的だったのが,「AまたはB」と書けばよいところを「AorB」と書いていたこと。orって。5年生にorって。自分でもびっくりしました。教室なら自然に使えている「子どもに伝えるように表現を工夫する」技術が,画面に向かって書いていると,私の場合は著しく鈍っていたようです。

 

このコミュニケーションの質と量の問題については,登校再開後に子ども達にFormsでアンケートを取ってまず子ども達の認識の実態を把握する予定です。それから,教員同士でも勿論ですが,子どもたちとも一緒により良いコミュニケーションのカタチを考えていくつもりです。

 

 

・・・どうでしょうか?俺はこんなしょーもない失敗しないよ!って感じでしょうか??(だとしたら,ご期待に沿えず申し訳ございませんm(_ _)m)

 

 

<失敗その3>子どもは意外と忙しかった

休校になったら,本来学校で過ごす時間が丸々空くわけですよね。登下校の時間も無いし,休み時間も勿論無い。じゃあ子ども達に時間的な余裕はあるはずだろうと考えた我々は,Teamsを通してそれなりの課題を子ども達に課しました。「次のオンライン授業までにこの動画を見ておいてね(→リンク貼る)」「休校明けにテストするから,〇ページから〇ページの漢字は練習しておいてね」・・・結果として,子ども達から「忙しすぎる」という声がちらほらと上がりました。やることが多くて,慌ただしいと。

それは特に,学習塾に行っている子ども達から上がりました。聞くと,塾もオンライン授業があり,(多い塾は)1日3時間も授業があると。そして驚いたのが,塾によっては休校期間になって宿題の量がいつもより増えたということ。

要は,塾も我々も,大人が休校期間の子どもは暇だろうと勝手に決めつけていたんですね。どうせ暇なんだからこれぐらいできるだろう,と。大人の勝手な決めつけの結果,皺寄せを食うのは子ども,と。親や先生にSOSを出せる子はいいんですけど,抱えてしまった子は辛かっただろうなぁと思うと,とても申し訳なく感じます。

いつもなら,表情がイマイチな子やいつもと様子が違う子には,声をかけるなり何なりアプローチできますよね。オンラインではその変化のサインに気付けないんですよ。いやー,これも怖かったですね,正直。Teamsの会議で顔は見えるけど,表情や様子までは読み取れないんですよね…

 

<失敗その4>いわゆる「二極化」が進行した
休校期間中に,こんなツイートをしました。

 

ツイートでは表現をオブラートに包んだつもりですが,まぁ早い話がテクノロジーが格差を増幅させているんですよ。学校は社会の縮図,とはよく言ったもので,社会で実際に起きていることが私の学年でもこの休校期間中に如実に顕在化しました。


…この二極化の問題については,思うところや考えるところが多々あり,また現在進行形で対応している問題でもあるので,後日別のエントリーで語れたらいいなぁと考えています(上記アンケートでも2位の得票ですし)。

 

いかがだったでしょうか。全てノンフィクション,私の失敗談です。勿論「失敗した~」で終わりにしているわけではなく,あれこれと手は打っています。でも,子ども全員に端末がある状況での休校という教員生活で初めての状況で,想定していなかった失敗を沢山してしまったのも事実です。その点に関しては,子ども達や保護者に本当に申し訳なく思っています。

この記事を読んでくださっている教員の方には是非,私の失敗を他山の石として,いつ休校になってもいいようにしっかりと組織的に準備をすることをオススメします。


ここまで長文を読んでいただき,どうもありがとうございましたm(_ _)m

コロナ禍における我々教員の最優先タスクは「オンライン授業」では無い

唐突ですが,インテル入ってる」でおなじみのインテル社。押しも押されぬ,半導体の大手メーカーですよね。

 

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ポーン♪ポポポポーン♪

 

実はその昔,日本企業もインテル社のような半導体を作っていたのです。と言うか,むしろ世界の市場を牛耳るほどのシェアを誇っていた時代(1980年代)があったのです。自動車産業と並ぶ日本の基幹産業,とまで言われていました。それがどうでしょう。今や,各国の企業との競争に敗れ,壊滅状態です。最後の砦だったエルピーダメモリに,2009年に300億円もの公的資金が投入された挙句2012年に経営破綻したことを記憶されている方もおられるでしょう。

日本の半導体メーカーが競争に負けた原因としてよく語られるのが,「技術では負けていなかったが,戦略で負けた」という言葉です。当時の日本企業(日立・東芝など)は,高性能・高耐久の製品を追い求めるあまり,市場が求める商品を開発する努力を怠ったのです。

 

・・・なぜこんな話をしているかと言うと,コロナ禍真っ只中の現在(2021年8月下旬)における「コロナだ!→休校だ!→オンライン授業だ!」という世の中の主流の(?)動きが,私には全く同じに見えるからです。

つまり,担任の先生がオリジナルで作るオンライン授業は,本当に子ども(や保護者)から求められていますか?それは目的を達成するための最適な手段ですか?そもそもオンライン授業の目的は明確ですか?といったことを問いたいのです。

私にはとてもそうは思えません。勿論,オンライン授業に長けた先生もいらっしゃるでしょう。でも,現実はそうではありませんよね。「オンライン授業をやりなさい」って突然管理職に言われたけれど,どうしたらいいんだろう?何から始めたらいいんだろう?そういう先生が多数派なのではないかと,現場の教員として感じています。

 

じゃあどうしたらいいか?簡単です。自分でゼロから作らなくても,世の中にあるコンテンツを活用すればいいのです。たとえば私が勤務する茨城県には「いばらきオンラインスタディ」という県の教職員皆で作り上げたサイト(教科書の単元に沿った動画やワークシートが大量にあるサイト)がありますし,葉一さんのような教育系YouTuberだってたくさんいらっしゃるのです。 

www.youtube.com

 

そもそも,葉一さんよりクオリティの高い授業動画を作ることができる公立学校の教員なんて,日本に何人いるんだって話ですよね。

くどいようですが,ゼロから自力で作り上げることが全てでは無いのです。コロナ禍の今,自分が受け持っている子ども達の学びを止めない為に何に注力すればよいか(目指す方向)を考える,つまり戦略を考えることこそが大事だと私は考えます。戦術(≒手段)は後回しです。先ずは,戦略(目的の明確化)です。

 

私がこのような考えに至ったのは,この記事が大きく影響しています。2020年,あの一斉休校の最中に読んで,感銘を受けました。 

ict-toolbox.com

日本のように先生の授業技術や学級経営力ですべてを引き受ける感覚で伴走型を行うと、たちまちパンクしてしまうかしれないので、先生の負担や手段も組み直すことが重要です。単純な知識伝達や反復練習のチェックは既存の学習動画や学習アプリを活用して省力化し、その分、子どもの学習計画のペース配分づくりや声かけ、サポートなど伴走型に変えていくような組み直しをすることが大切でしょう。これらは先生だからこそできる仕事で、家庭でこうしたサポートができる親は限られています。(上記記事より引用)
 

 この記事では「戦術」のアイデアも豊富に挙げられていますので,是非ご一読いただければと思いますm(_ _)m

 

 

オンライン授業が最優先ではないなら何が最優先なんだ,と疑問を抱かれる方もおられるかもしれません。私の考えは,このツイートに記しました。

 

①「子どもたちとのつながりを絶やさないこと」を最優先にする。


②顔が見えないからこそ,子どもたちの様々な状況を想定する想像力を持つことを忘れない。


③いわゆる「オンライン授業」が全てでは無い。オフラインを含めた子どもたちの学び全体を,発達段階や実態に応じてマネジメントする意識が必要。 

 

 

覚えておられるでしょうか。去年(2020年)の一斉休校の時,多くの学校が大量のプリントを各家庭にポスティングした結果,「丸投げだ」との批判が数多く生まれたことを(参考記事)。だからこそ,①が最優先なのです。子どもとのつながり,その為の手段はZoomなのかTeamsなのかメールなのか電話なのか,ともかく顔が見えないぶんつながりを保つということに我々は注力すべきだと私は考えます。明確な戦略も無しに,「先生頑張って動画作ったから!学校のホームページにアップしたから!見てね!!」だけでは,プリントを投函して丸投げだと批判された去年と,構図が全く変わりませんよね。

(②については上記ツイートの中身をご覧ください。)③については,ここまで述べてきたとおりです。補足するなら,担任(教科担任制の場合は教科担当)にしか出来ないマネジメントってあると思うんですよ。「あの子にはこの動画がハマるかも」「あの子はこのサイトのクイズに絶対に食いつく」みたいな。そこにこそ,4月から学校生活を共にしたからこそ出来る個に応じた学びのマネジメント(実態によってはフォローアップ)にこそ,我々はエネルギーを注ぐべきではないでしょうか。

 

 

「ピンチはチャンス」とはよく言ったもので,私は今のこの状況をチャンスだと捉えています。今こそ,教師が教師たる専門性を発揮するときです。未曽有の事態に対応することで,我々教員も子どももレベルアップ出来る絶好のチャンスです。我々が,子どもや保護者に頼られる存在になるべきときです。大変なことも多々ありますが,共にそれぞれの現場において考え,行動していきましょう!!

 

長文,失礼しましたm(_ _)m最後まで読んでいただき,ありがとうございました。

「#さるゲー」を読んで考えたこと(その2)

※このエントリーは「その2」ですので,その1を未読の方はまずこちらからお願いしますm(_ _)m 

dan-makino.hatenablog.com

「子どもたちの異なり力を認めるのなら,教員の異なり力もお互いに認め合わないといけないのではないか」

 

さる先生は同著の中で,「異なり力」という言葉を何度も使われています。同著のキーワードの1つと言ってもよいでしょう。

 

(前略)そこで,「ここをこうしたら,もしかしたら何かよいモノやコトができるのではないか」という,自分だけの味方を働かせる力が必要となってきます。これが「異なり力」です。(p.30-31)

 

今後の社会において異なり力が価値を生み出すという話題から,実際に授業でどのように異なり力を育めばよいのか,という具体例まで同著には示されています。なお,このあたりは「シン・ニホン」の中で述べられている「ヤバい人財」(p.162)と同義と捉えてよいかと思います。

 

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https://kaz-ataka.hatenablog.com/ より


この異なり力を育てる必要があるというさる先生の主張に,私は賛成です。ですが,その為には,教員の観をアップデートすることもそうですが,それと同等,いやそれ以上に高いハードルがあると考えます。それが,特に小学校に力強くはびこる「学級間の横並び意識」です。これも同著で言うところの「不自然な教育」(p.25)の象徴だと考えます。同じ学年でクラス間に違いがあってはいけない,足並みを揃えるべきだ,という意識です。

 

私は若い頃,6年生を担任したときに子ども達から「給食の片付けに時間がかかり過ぎているから,どうにかしたい」と問題提起をされたことがあります。学級会を開き,自分たちで意見を出し合い,結果的にスピーディーに給食の片付けが出来る仕組みを作り出すことができました。ところが,その数日後,私が校外の出張で不在だった際に填補に入ったベテランの先生(いわゆる”お局様”)に言われたのです。

 

「先生のクラスは片付けのルールが違う。学校のルールがあるのだから,従いなさい。」

 

私は抗いました。子ども達が自分達で問題提起して解決したことに価値があるのではないか,順番などが多少違うだけの差異も認められないのか,そもそも揃える必要があるのか。。。でも結果的には教務主任などからも外圧がかかり(お局様の校内政治力が発動しました),私は折れざるを得ない状況になりました。

 

「ごめん,給食の片付けのルールは元に戻します」

 

そう,子ども達に告げた時の屈辱。

子ども達の悲しそうな目。

一生忘れられない,トラウマです。

 

こういった事例は,学校の教育現場では枚挙にいとまがないと思います。過度な横並び意識,未だに金融ビッグバン前の護送船団方式のような意識が,教育現場(特に小学校)には残念ながらまだまだ残っているように私は感じています。

 

じゃあどうすればよいのか。私は今年度(2020年度)初めて学年主任を務めていますが,年度の冒頭に学年の先生方に伝えた言葉があります。それは,

 

「(クラス間で)はなるべく無くしたいが,違いはあってもいい」

 

という言葉です。これは,以前なんちゃら訪問で指導主事の先生が学校に来たときに仰った言葉で,それ以来ずっとその意味を考えてきた言葉です。私なりの解釈は「担任の先生によって,キャリアも違えば得意分野も違う。だからクラスによって違いが生まれるのは当然で,寧ろその方が自然な状態。でも,だからと言ってそれぞれが好き勝手にやっていいというのも違う。手段は違っても,学校や学年の方針を意識し,クラス間に差が生まれることはなるべく避けるように努力すべき」というものです。

 

「差」というのは,たとえば学習進度。私は,学年でテストの実施週は揃えています。月曜日にやっても金曜日にやってもいいけど,この週に取り組んで翌週に返却してくださいね,と(双子対応などもあり)。また,普段の授業ではなく全校的な取り組み(今だと卒業式に向けた各種準備)などでは,差が生まれないように気を遣っています。

 

一方で,授業における創意工夫は基本的に先生方に任せています。もちろんワークシートや動画といった各種資料はTeamsなどで共有しますし,誰かの取り組みをみんなでコピーすることもあります。ただ,やっぱり自分で生み出すのが一番じゃないですか。思い入れがないと,”体重が乗らない”んですよね(私だけでしょうか…?)。

 

このあたりのバランス(≒クラス間での違いの許容度合)は難しいですよねー。。。学年主任をやったことがある方なら,このあたりは共感いただけるのではないかと思います(笑)

 

先日文科省から出された資料(「令和の日本型教育」の構築を目指して)の中でも,教職員の姿として「学校教育を取り巻く環境の変化を前向きに受け止め,教職生涯を通じて学び続け,子供一人一人の学びを最大限に引き出し,主体的な学びを支援する伴走者としての役割を果たしている」と表現されています。伴走者という表現がなかなか踏み込んでいるなぁと感じましたが,お互いに異なり力を認め合いながら,我々教師も子ども達と共に学んでいかなければならないと感じた次第です。

 

 

今回のエントリーは以上となります。

最後までお読みいただき,ありがとうございました。

 

 

「#さるゲー」を読んで考えたこと(その1)

さる先生の新刊が出ました。今日届いたのですが,一気に読了しました^^

 前著である「全バカ」同様,これから何度も繰り返し読んでいくことになりそうなので,現時点での感想や考えたことなどをまとめておこうと思います。正直に言うと,頭の中でいろんな思考がぐるぐると廻っており,ある程度は吐き出さないと全く寝れる気がしません(苦笑)(現在23:20)

 

私にとって,本著の中でぶっちぎりで一番おもしろかったのはⅡ章です。豊富な実践例もさることながら,学力の3観点についてそれぞれ私見を述べている箇所に彼の哲学が滲み出ていて,いや滲み出るというよりは溢れ出ていて(笑),大変読み応えがありました。

 

8割思考で知識の獲得,技能の習得を終え,あとの時間をヒトにしかできない領域での力を伸ばすことに使うことが必要なのではないでしょうか。(p.64より引用)

 

(前略)時代がアート思考のパワーを必要とし始めたのです。これから,どう子どもたちの「異なり力」を伸ばしていくかは,僕たち世代に与えられた課題です。(p.81より引用)

 

(前略)その単元で学ぶコンテンツを手段とし,未来を生きる上で汎用性の高いコンピテンシーをどう伸ばしていくかという見方を,教員が働かせることはこれからマストとなっていきます。(p.91より引用)

 

引用した箇所以外にも胸熱な文章がたくさんあるのですが,この章では「~ではないでしょうか」と読者に判断を委ねる文末と,「~べきです」「~です」と筆者が主張する文末が入り乱れていて,それがとても面白い。現場の教員が,現場で実践を繰り返して思考しているからこそ,こういう文面になるのだと感じました。(そしてさる先生も超絶インフルエンサーなんだけど,やっぱり最前線の現場に立つ仲間なんだな,となんだか嬉しくなりました)

 

一度通読した今の段階で,私が強く感じたことは2つです。それは①「目の前の子どもの実態も,先生の個性も千差万別。観のアップデートさえ怠らなければ,アクション(行動)は多種多様あっていいのではないか」という点と,②「子どもたちの異なり力を認めるのなら,教員の異なり力もお互いに認め合わないといけないのではないか」という点です。以下,詳しく述べていきます。

 

①アクションは多種多様あってもいいのでは

 

突然ですが,私は毎年お正月に楽しみにしている番組があります。それは,テレビ東京が放送する「大間のマグロ」のドキュメンタリーです。

www.tv-tokyo.co.jpいかにも昭和生まれのおじさんが好きそうな番組ですが(汗),今年この放送観ていて思ったんですよ。「ああ,この地域で生まれ育つ子どもたちに必要な資質能力って,自分のクラスの子どもたちとは全然違うな」って。当たり前じゃん,と突っ込まれそうですが,そんな気付きがあったんです。

 

さる先生が「俺の実践こそが至高なんだから,みんな俺の真似をすればいい」なんて考えているとは微塵も思っていませんが(笑),この本で提示されている実践はさる先生の実践です。彼が,目の前の子どもの実態を捉えた上で行っている実践です。もちろん素晴らしい実践ですので,真似したい人は真似すればいいでしょう。でも,真似だけが全てじゃないと思うんです。たとえば私は本著で述べられている「疑う力」(p.86)を伸ばすために,算数で「批判的思考」を育む実践を数多く行っています(教育論文も書きました)。

学校でよく語られる授業観,教材観,子ども観といったものは,結局は世界観に内包されているのです。(p.165)

私が本著で(今のところ)最も共感しているのがこの一文です。教員ひとりひとりが世界観をアップデートすれば,あとは自分の得意分野で,自分が最も熱量もって授業で勝負できるフィールドでチャレンジすればいいんじゃないかな,そんなことを考えました。だって知識伝達型の“うまい授業“なんて,今やYoutubeで再生し放題じゃないですか。私たち現場の教員がユーチューバーに勝れるのは,肌身で感じる熱量しか無くないですか!?(←深夜のテンションになってきました,申し訳ないですm(_ _)m)

 

すみません,金曜日の夜に約1時間書いてきましたが,エネルギー切れですm(_ _)m  ②については,後日また書いていきたいと思います。ここまで読んでいただき,ありがとうございました。

 

 

最後になりましたが,さる先生,執筆お疲れ様でしたm(_ _)m

素敵な本を世に出していただき,感謝です。