「無意味なこと」の意味について考える
先日,福島県のある小学校に算数の授業を観るために行ってきました。
やって参りましたよー
— マッキー@つくば (@dan_makino) December 18, 2018
(今日は半分仕事です 笑)
算数の授業をたくさん観れるので、
とても楽しみです😁 pic.twitter.com/Uoz5ewk7sA
そこに助言者としていらっしゃっていた大学教授(算数数学教育業界で知らない人はいない超大物)が,こんなことをおっしゃっていたんです。
「児童の多様な考えのうち,教師は意味のあるもの,すなわち正解だけを取り上げる傾向がある。けれども,大事なのは,無意味に見える考えを取り上げることだ。妥当性を皆で検討することで,『正解』の価値がより高まることもあるし,大人には無意味なように見えても,児童の立場で考えればすごく価値のある考えであることも多々ある。授業の『ねらい』に向かって,最短経路で進み過ぎの教師がなんと多いことか。」
ドキッとしましたよ,ええ(笑)。自分は,じっくり時間をとって,子どもたちの多様な考えを吟味できているかなあ,と。
そんなことを考えていたら,養老孟司さんが全く同様のことを述べておられる文章に出会いました。
(上記リンクより抜粋)
僕は『無意味なものにどれくらいつけておくか』という事が、子育ての根本だと思っています。無意味なものに触れている事が、今の子どもは少な過ぎる。大人がすぐ「意味」を教えてしまう。そうすると、子どもも見える物がそういう風に見えてしまうから。」
確か著書の中でも,タワーマンションに無意味なものが一切無いとかそういう話をされていたような記憶があります(どの本は記憶が定かではありません・・・)。
そして,象徴的な出来事があったんですよ。それは、1歳半の次男を公園に連れて行ったときのこと。
高速で階段を登る次男(1歳半) pic.twitter.com/rkTMw5ONKj
— マッキー@つくば (@dan_makino) December 24, 2018
このとき,すべり台を降りた次男が,地面の砂をいじりだしたんです。で,同じ場所で,ずーっと指で砂をいじっていたんですね。つまんだり,じっと眺めたり,私に渡したりしながら。
3分ぐらい経ったでしょうか。私は「すべり台したら?」と彼の手を引いたのです。そう,「砂で遊ぶことは無意味で,すべり台で遊ぶことの方が意味のあることだ」と勝手に決めつけて。彼は別に反発することは無くそのあとすべり台で遊んだのですが,帰りの車の中でめちゃめちゃ反省しました。
私(大人)にとっては何の変哲のない砂でも,1歳半の次男にとっては触り心地を確かめたり,形や色が違う砂の粒を眺めたりすることはとても楽しいこと(意味のあること)だったのかもしれない,と。彼の「好奇心の芽」を,父である私が勝手な意味付けに基づいて奪ってしまったのかもしれません。いや,奪ってしまったのでしょう。
学びの主体は,子ども。
いろいろな文脈で言われているこの言葉の意味を,再び考えさせられた出来事でした。
授業でも,もっと教師の「意味付け」(≒価値付け)から離れられたらいいな,子どもの「意味付け」を本当の意味で大切にした授業を創りたいな,とそんなことを考えています。